萱野稔人「なぜ私はサヨクなのか」より

左翼は社会のあり方をトータルに条件づけているような基底的な要因や構造に介入することをめざす。マルクスが生産関係を、ミシェル・フーコーが力の関係としての権力を、分析の対象にしたのはそのためだ。

 ただしこうした立場は、ある禁欲的な態度を左翼に要請せずにはおかない。つまり、あくまでも左翼は人々の社会的生活を条件づけるものに介入するだけで、それぞれの人の生き方や実存の問題にはけっして介入しない、という態度である。

 生き方や実存の問題は左翼のあずかりしらぬことであり、左翼は社会を条件づけるものに介入するという立場を保持し、けっして越権行為はしないこと。この禁欲的な態度こそが、逆に、左翼をふところの深い存在にする。
 左翼であることは、だから、そんなに大げさなことじゃない。「今の社会がわるくなっているのは人々のモラルが低下したからだ」と説教をたれるヤツほどうっとうしい存在はない。社会の変革をめざしながらも、人にモラルや道徳をおしつけたり、実存の問題をとやかくいったりしないところが左翼のよさなのだ。



ロスジェネ 創刊号』(かもがわ出版、2008年)より転載

 いまの店はとくにこのての本が売れるわけではないので放置状態だったのだけれど、個人的な興味から1冊注文して本日入荷。ぱらぱらと中身をみて、エディトリアルデザインてだいじだなーとおもった(なんだか自費出版物みたいなのだ)。
 うえの文章を読んで、学生時代(だったか学校から出てしばらくしたころだったか)のことを思いだす。いっしょに芝居をやっていてその後南の島にいってしまったOという男が、なんの話のながれだったのか出し抜けに
「おまえ唯物論だろ?」
ときいてきたのでびっくりして、しばらく考えてみたのだけれどよくわからない。そこで
唯物論者でないとしたら何になるのか」
と聞きかえすと、
「まあいろんな言い方はあるけどさ、オレたちのコトバでいえば、『形而上学』だよ」
「あーあーあー(納得したようす)。そんなら唯物論だわたしかに」
 そのときの「オレたちの言葉」という表現が、なんだかみょうにくすぐったいような恥ずかしいような気がしておもしろかったものだった。
 のだった。