辻井喬・上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』より

 印象に残った部分を抜書き。

上野 セゾンカードをハウスカードにしておかなかったおかげで、そのあとで物販以外の分野にどんどん事業が伸ばせました。それでなかったら物販に留まっていた可能性がありますから。
辻井 そうなんです。ハウスカードだったら、三越高島屋で買い物ができません。私のイメージはナショナルカードですから、「西武」という表示をつけるべきではない、と。何がプラスになるかわからないと思いましたのは、ひとつきっかけがあって、西武鉄道がちょっとおかしいという情報が入っていたんですね。でも口外できませんから、表向きは「これからはナショナルカードの時代、だから『西武』という名称は使わない」と言い続けた。西武鉄道の経営の仕方がおかしいという認識があったので、よけい力が入ったということなんです。
 カードの名称についてはさんざん議論して、結局、一年中いつでも使えるという意味から、フォーシーズンかなあと。しかし「フォーシーズン」というのは、いまひとつだから、フランス語で言ったら多少、気が利いているというので、「セゾン(季節)」になったんです。
上野 「脱西武戦略」ですね。名称も気が利いています。
辻井 はい、「脱西武」です(笑)。
上野 でも百貨店は最後まで西武百貨店でしたね。セゾン百貨店にならなかった。
辻井 西武鉄道が建物そのものを保有していましたから、変更はできないんですよ。

 「一年中使えるからセゾン」ていうのは後付けの理屈だよなあ。「西武」の「セ」なんじゃないの?

辻井 ……その後、銀座にもう一つ劇場をつくろうということになって、「銀座セゾン劇場」(一九八七−九九年)をオープンしました。こちらは座席数七百七十四席とかなりキャパシティが大きいスペースです。私はどうしても世界的な名演出家のピーター・ブルックの演劇を上演したかったので、柿落としピーター・ブルックの『カルメンの悲劇』をもってきました。この公演は大変な評判でしたよ。
 私は初日に長年尊敬していた杉村春子さんを誘って一緒に観ましたけれども、観劇後の杉村さんのあんなに不愉快な顔を見たことはなかったですね。
上野 どうしてですか?
辻井 それはやはり、ピーター・ブルックの芝居を観るとね、自分が今までやってきたことは何だったんだろう? ということではないでしょうか……。

辻井 ……ピーター・ブルックの公演は大成功だったんですが、彼の演出は妥協がなくてたいへんだった。「舞台と観客席との一体感がないと、この芝居は成立しない」と言われ、舞台と客席との間仕切りをなくしたり、カルメンですから闘牛場の雰囲気を出すために舞台上に大量の砂を撒いたり、舞台装置の大掛かりな変更を余儀なくされた。舞台装置の変更はたいへん費用がかかりますからね。翌八八年に『マハーバーラタ』、八九年に『桜の園』、九一年に『テンペスト』をやりましたが、毎回の舞台装置の変更でちょっと参りましてね。それでピーター・ブルックの芝居は残念ながら四回でやめました。

 セゾン劇場が呼ぶのをやめたらそれきりになってしまったのは、たいへん残念である(私4つとも見ました♪)。

上野 いずれの場合*1も、ご自分の監督責任だとおっしゃっていますから、辻井さんに人を見る目がなかったということになりませんか?
辻井 そう言われるとまさにそのとおりですね(苦笑)。
上野 ご本人はまったく実情をご存じなくて、それぞれの会社が暴走したということになるんでしょうか?
辻井 突き詰めていけば、私が適任者でない者を経営の責任者に任命しているわけですからね。それはやっぱり私の任命責任になります。
上野 辻井さんは吉野源太郎さんとの対談(「日経ビジネス」二〇〇五年五月三十日号)のなかで、西洋環境開発に関しては責任者が暴走、独走してしまい、私なりの責任はとったが、「私の監督不行き届きは免れない。その責任はとったつもりですが、明らかに私の失敗でした」と述べておられます。この言いかたですと、まあ何というか、日本敗戦のときの天皇のように、「朕の与り知らぬところで、軍の暴走を許した」というように聞こえます。だから、暴走したのは「朕」ではないと?
辻井 ああ、そうか(笑)。……

辻井 ファミリーマートを売却したとき、私はもうすでに現場を去っています。責任者の和田君から「ファミリーマートを売ることにしました」という報告を聞いて、「ああ、そうか。僕ならば、西武百貨店を売ってもコンビニは残すんだが……」という私の感想を述べましたけれど。
上野 いま、たいへん意外なお答えをお聞きしました。辻井さんは百貨店を売却する可能性も考えられておられたということですか?
辻井 いや、私はそう考えましたけどね。そのときすでにもう和田君がやっていて、彼が「百貨店を助けるために全力をあげます。そのためにはファミリーマートを売却するしかありません」と報告するから、私の考えをいまさら言ってもしようがないんですよ。

辻井 ……そこで西友の社長の渡辺紀征君が言うには、「西友グループは、東京シティファイナンスで計算できないぐらいの穴が開いて、単独ではもちません」と言うから、「やっぱりそんなになってたか」、「じゃ、どこかと一緒になるしかないねえ」と。「ついては、二社ほどの相手がいますけれども、日本と外資だったらどちらにしますか?」と聞かれたので、「日本の一量販店と一緒になってもノウハウにプラスアルファはないなあ。外資だったらプラスアルファがあるから、僕だったら外資と提携するほうを選ぶよ」という意見を述べました。彼も、「私もそう思います」と。それがアメリカの大手スーパーのウォルマート社だったんですね。

辻井 ……事件があったその日、私は文化放送の番組審議委員で、その会議に出席するために四谷の文化放送に行きましたら、局内がざわざわして異様な雰囲気に包まれている。で、局員に、「どうしたんですか、なにかあったんですか?」と聞いたら、「あなた、まだ知らないの。三島がえらいことやりましたよ」と。自衛隊に「盾の会」の会員四人と乱入して、いまバルコニーで演説していると説明されて、もうびっくりですよ。
 それでただうろうろしていたら、別の文化放送の記者に、「あ、堤さん、これから緊急座談会やりますから、来てください」と言われて、わけもわからずに座談会に出席するはめになった。そこには江藤淳とか藤原弘達とか全部で七、八人くらい集まっていました。座談会が始まると、「三島さん」ではなくもう「三島、三島」と呼び捨てですよ。「三島はとんでもないことをしてくれた。あれで日本のイメージが悪くなる」と、三島由紀夫吊るし上げ集会のような雰囲気なので、私は状況がわからないながらも、だんだん腹が立ってきて、「みなさんは口々に三島さんを批判しておりますが、どんな事情があったにしろ、私は三島由紀夫を敬愛しています。あなた方とは正反対の立場です」と叫んで三島さんの擁護に回りました。

上野 ……一九八四年に、西武美術館が旧ソ連邦時代のモスクワで「日本のデザイン――伝統と現代展」を開催しましたね。その展覧会会場に展示された多くの日本工業製品のなかで、電気洗濯機にソ連の主婦たちが釘付けになって動かなかったというエピソードがあります。その光景をご覧になった辻井さんが、「これは洗濯機への欲望を全面的に肯定しようという思想だ」とおっしゃったと聞いています。この「私への欲望」が、消費社会に結びつきます。それを支えてきたのは、女でした。
辻井 そうでしたね。あの光景には、ちょっと胸を衝かれました。……

辻井 ……ソビエト崩壊のいちばん大きなきっかけは、農業政策なんです。農産物の生産力が中国の半分以下になって、これは体制にとって大きなショックだった。当時、ソビエトの副首相がちょっと相談をしたいというので会いました……
 ……私はモスクワ大学客員教授として、副学長や学生さんの前で特別講義をしたことがあるのですが……

 ソヴィエトの副首相が相談したいだのモスクワ大学客員教授だのって、どんだけ!。

上野 百貨店の賞味期限が切れたと、思われたのはいつですか?
辻井 どんなに譲歩しても二十世紀まで。二十一世紀になって七年経ちましたけれども、まだ解散価値が残っていますから、解散価値が残っている間にどういう封に後退戦の道筋をつけるかはたいへん大きな問題です。しかし、一方で人間社会、そんなにスパッと幕を下ろすみたいに終わるというようなことはないと思いますよ。中身が変っていて、社名その他は昔のまま残るというケースも出てくるでしょうが。
上野 はい、そのとおりですね。
辻井 徐々に、形を変えることも後退戦の一つですから。じゃあ、可能な限り犠牲を少なくして、どういうふうに形を変えてクローズするか。生き残るか。それでも、私はまだ楽観していまして、全然なくなるということではないから、いまの二分の一になっても百貨店を利用する人が生きていけるような体制をつくればいい。その方法を考える必要がありますね。
 一つは会社の数が減る、一つは店舗の数が減るというふうに、いろいろなシミュレーションをしてみる必要があります。もう、そういうことをする時代じゃないんでしょうかね。テーマパーク化するというのも一つでしょうが、それにも限界がある。シネコンプレックス化をするのも一つでしょう。いろんな方法を考えつかなきゃいけない。ただ、一つの百貨店で何千社という問屋さんが出たり入ったりして、そこへ何万もの人が毎日集まる、そういう百貨店は終わりになると思います。自分で現場を持っていると、みんなあまりそこまで考えたくないし、考えられないと思いますね。
上野 後退戦の指揮官に対して、「苦衷をお察し申し上げます」という感じでしょうか。
辻井 そうなんです。ここで百貨店復活論をいくら言ってもね、むなしい響きしか出てこないんじゃないでしょうか。それはどんなに編集に知恵を出しても、総合雑誌の部数が増えないのと同じことではないでしょうかね。

 徐々にテナントビルのような形式に近づいてゆくというのがいちばんありえそうなシナリオなんでしょうか。他人事ながらいまの百貨店の人はいかにも大変そうだなー。

*1:西洋環境開発」と「東京シティファイナンス」の失敗