『高校教師』

 先日遅番の日の午前中、たまたまTVをつけたら野島伸司のドラマ『高校教師』の再放送をやっていて思わず見てしまい、結構おもしろかったので毎日録画してみるようになって、今日が最終回であった。
 本放送のときはすでにテレビドラマを見るという習慣を失ってしまっていたので、世間で評判であるという噂しか知らなかった。ただ、主人公の真田広之がアパートで熱帯魚を飼育しているということだけをなぜか憶えていたので、「?」と思いよーく思いだしてみたら、小学館の雑誌「テレパル」のホイチョイプロダクションのコラムでその話が書いてあったことに思い当たった。当時TVで放映する映画をチェックするのに、この雑誌を毎号買っていたのである(映画のオリジナル時間と本編放送時間(CM抜きの時間)がちゃんと載っているのはこれしかなかった)。ホイチョイの人は「アクアリウムは手間ひまがかかるので、真田先生がきちんと世話できるわけがない」というイチャモンめいたことを書いていたような気がする。「テレパル」なつかしい。
 真田広之が若くて顔がつるんとしているのが可笑しい。二枚目というのは年とってからのほうがかっこいい人のほうが多い(アラン・ドロンとかもそうだ)。赤井秀和は一所懸命芝居をしていて好感がもてる。桜井幸子はちょっと神がかっているかんじ。桜井や持田真樹(へた…)が教師にたいしてタメ口をきいているのがちょっとひっかかったのだけれど、野島伸司的世界にあっては教師と生徒の平等が実現しているのであろうか。京本政樹がたっぷりの芝居をしている。あと教育実習生役で中盤ちょっと出てくる若林志穂という役者が上手いなあとおもった。なんというか演技の制球がよいというかんじ。
 それにしても、たぶん自分はこのドラマをリアルタイムで見ていたらぼろくそに貶していただろうとおもうのだが、「昔のドラマだ」と考えると許せてしまうのだった。なぜだろう。これは映画や小説でもそうだし、また同時代の作品でも、地理的にはなれた場所でつくられたものにも同様の印象をもつ。どうも時間的・空間的にへだたった作品を受容するときにあらかじめ「細かいところにこだわってもしょうがない」という心構えをしてしまうようである。こういう現象って普遍的なものなのかそれとも私だけの話なのか知らん。