「教育」とか「しつけ」について二題

……国語の記述問題については、それまでも市進学院の「ことばの森」という添削問題を受講していた。まずまずの成績で、比較的早いサイクルでこなしていた。だから安心していたら、プレップでつまづいてしまったのである。教室で書かせようとすると、固まってしまって書かないらしいのである。うんともすんとも先へ進まなくなってしまうと言うのだ。塾からそういう連絡をもらったとき、僕にはすぐにその理由がわかった。
 息子は、小さい時から僕が毎日原稿を書いているのを見て育った。子供は誰でも親の真似がしたいものだ。息子も紙と鉛筆を持って、何やらニョロニョロ書くのを楽しみの一つとしていた。その頃は僕の書斎がまだ本であふれていなかったので、小さな卓袱台を置いてやったら大喜びで「仕事」をしていた。息子がまだ二歳の頃の話だ。
 ところが、小学校に入ってちゃんと字を習うようになった頃、息子は字を書きたくないと言い出したことがある。妻には、「パパみたいにすらすら書けないからいやだ。」と説明したらしい。妻は、いまはすらすら書けなくてもそのうちかならず書けるようになるからと言って納得させたと言う。僕は、「へえ、そんな心理が働くのか。」とも、「ハハーン、こいつはプライドが高いんだな」とも思った。プレップの一件で、それを思い出したのである。そう言えば、息子は塾でも学校でも「プライドの高いお子さんですね。」とよく言われたものだ。少し扱いにくいところがあったのだろう。
 今度も、徹頭徹尾心理的な問題だと思った。自宅で解く「ことばの森」はちゃんと書けるのだから、国語力の問題ではない。教室という空間で、教師に直ぐ判定されると思うと、手が縮こまって書けなくなってしまうのだ。プライドの高い息子は、変なものを書いて批判されるのが怖いのだ。その気持ちは僕にもよく分かる。塾の責任ではない。だが、息子の性格からして、かなりこじれているように思った。
 そこで、まず、「最初は書けないのが普通なのだから、書けないことを気に病む必要はない。」と、勇気づけることから始めた。それでも書けないなら、今度は書けるまで席を外すことにした。僕が側にいることが、書けなくしているのだから、息子の気持ちがほぐれるまでそんなことを二、三回繰り返した。気分はほとんどセラピストである。
 息子が「書けない」理由は幼児体験に根ざしているようだったし、また息子のプライドの高い性格にも根ざしているようだった。だから、僕は慎重だった。僕がほんの少しでも苛立ったら、もっと悪い方向に進むことは火を見るよりも明らかだった。しかし、絶対に書き出せるようになるとも信じていた。
 息子が書き出せるようになるまでには、二、三回かかった。僕は、とにかくどんなに下手でもいいから、それを誉めて自信を持たせることにした。「悪くないじゃないか。」とか、「最初は、これだけかければ十分さ。」とか、「へえー、面白い読み方じゃないか。」とか。「うーん。」とか、「へへえ。」とか、息子もまんざらではないような照れ笑いを浮かべていた。息子の気持ちは見る見るほぐれて、少し長いものでもすらすら書くようになった。やっぱり「書ける」のだ。今息子の受験を振り返って、算数についてはj「ほう、面白い考えじゃないか。」と、ただの一度も言ってやれなかったことを悔やんでいる。僕のほうにそれだけの実力もゆとりも無かったと言うことだ。
 記述問題のコツも教えて、文章の細かいところまで添削を加えて、ほぼこれで大丈夫という感触を得るまでに半月はかかった。そして、息子の記述問題対策はいったん僕の手を離れた。それは、恰も小さな自立の儀式だった……


石原千秋秘伝 中学入試国語読解法 (新潮選書)』より

……わたしがカノコを叱るときというのは、冷静な教育的指導すぎて、他人の子に対するみたいだ、と夫は指摘します。他人の子ならまだいいが、猫に対するようなところもある。(しかしほんとに猫の子みたいにつきあえたらどんなに楽か)。相手は人間の、しかも自分の子だ。親が人間的な激情でつい、子どもを叱り飛ばしたり殴り倒したりして何が悪い。だいたいすべての場合あいつらの方が悪い。こっちが、おまえ(カノコ)のこうこうこういった行動のせいで不愉快な思いをしているんだぞっということはしっかり知らせるべきだ。我慢すべきじゃない、とわたしから見れば怒るのが好きとしか思えない夫は、わたしを批判します。
 しかしやっぱりどう考えても夫の口うるささが、わたしは気にいらない。しかし、気にいらないことがあるのが、人生でして、なんでもかでも思うようになったら面白くなかろう。それに夫とわたしが違うやり方をしていれば、たとえ、夫の叱り方が多少正しくなくても、夫の叱り方が正しくないと思うわたしの叱り方が正しくなくても、カノコがめっちゃくちゃにどうしようもない人間になってしまうことは阻止されるに違いない。もし、カノコがそういう人間になったら、それはひとえに、カノコのカノコ自身の責任です。


伊藤比呂美おなか ほっぺ おしり (集英社文庫)』より

 某所で(なんてボカす必要もない、ハイクですけど)でコドモを叱るときに手を上げる上げないなんていう話を見て、いままでぼんやり考えていたことを纏めておこうと思った次第。

 心あたりの本を探していて上の二冊が思い当たり、読み返してみたらしみじみ納得することが多くて、自分の教育方針はこの二人(三人)に相当影響を受けているのだなあと思ったのでした。

基本的に、自分や他人を危険に晒すようなことをしたら、ぶん殴ってでもやめさせる(道路に飛び出したりとか)。
それ以外の場合は、なぜダメなのかを理屈で説得しようと試みる。
手を上げるつもりはないが、もしかすると思わずパコンとやってしまうかもしれない。それはそれで仕方がない。
という方針でやってきました。
まあうちは女の子ふたりだし、特に上はヨメさんの友人に「置物?」と言われたほどおとなしい子だったのでこれで通用したというところがあるんでしょうけどね。

http://h.hatena.ne.jp/takanofumio/299865680944325124