『反=日本語論』から

(ブックマーク http://b.hatena.ne.jp/takanofumio/20120923#bookmark-112163274 に関連して)

…だが彼ら*1は、言語を語ることが、「言語」の領域をはるかに逸脱してしまうという必然に自覚的であるし、その過程で、体系としての言語の秩序が、言語ならざるものに拠って醜く汚染したものであるという現実を誰の目にも否定しがたい姿で浮かびあがらせてしまう。だというのに、いま、あたりにたち騒ぐあまたの「日本語論」は、確かに乱れた表情を示してもいよう現在の日本語を前にしたいらだちを、正しさだの美しさだのの語彙によって解消せんと躍起になっている。かつて、日本語はこれほど醜いものではなかった。それが、敗戦後の漢字制限などをくぐりぬけて来た結果、今日のごとき貧しい状況に陥ってしまったとする郷愁が、一方にある。また他方に、日本語は、他の外国語に比較して決して劣ってはいないが、にもかかわらず外国語が妙にもてはやされ、日本語がいささか軽視されている現状があるとすれば、それはわれわれの外国文化の理解がいまだに不十分で、いたるところで真実が歪曲化されているからだと説く人たちがいる。その歪曲を正せば、日本人がみずからの国語に注ぐ視線はより正確なものとなるはずだと彼らはいう。そしてその二つの視点が手をたずさえると、日本語は、その失われていた美しさを回復し、正しさを目ざして再編成されなければならないといった展望が生まれ、いずれにせよ、その展望のもとでは、日本語の現状が正しさを欠いた醜い畸形性と断じられてしまう。それは、やがては修正さるべき誤謬、美しさに向かって脱ぎすてるべき醜い仮の衣裳でしかないのだ。
 たしかに、こうした「日本語論者」の視点にはそれなりの正当性がそなわっている。われわれが日々実践している言語的体験は途方もなく貧しいし、なし崩しの無秩序がいたるところで肯定されてゆく。だが、この混乱は、秩序によって統御され、正しく美しい体系へとおさまってゆくときに姿を消すものとは思われない。というのも、かりに言葉がおさまるべき理想的な秩序があったにしても、その秩序の全貌を一目で把握しうるものは誰ひとりとしておらず、われわれが目にしているのは、たえず露呈した言葉の表層にすぎないからだ。秩序と思われたものは、ごく局部的な世界で凝固したかにみえる言葉たち、つまりは慣用というやつだ。そして、どうやら一定の秩序におさまっているかに見える慣用についてなら、その慣用を共有する人びとにとっての美しさなり正しさなりは口にしうるだろう。だが、その美しさ正しさの背後には、たえず凝固することのない言葉のうねりが、無秩序に渦巻いている。美しい日本語への郷愁も、正しい日本語への展望も、凝固する言葉の背後へと視線を注ぐ姿勢をとりあえず忘れたふりを装うことによってはじめて可能となるにすぎない。だが、怖ろしいのは、このとりあえず装われた忘却が、いつしか真実の忘却へと変容してしまうことだ。われわれが「文化」を語る場合に陥りがちなのは、どんな「文化」であれ必然的にはらみ持っているであろう負の局面、たとえば醜かったり、滑稽であったり、貧しかったり、愚かしく思われたりする局面を、一定の時が来れば常態に復するはずの一時的な錯誤、やがては快癒して秩序へと帰従する束の間の混乱とみなして視野の外へ追いやってしまうという欠点である。こうした姿勢は、先天的であれ一時的であれ病気に冒されたものを、人間の範疇から除外して健康者のみを人間とみなそうとする差別者の視点にほかなるまいが、この無意識の差別を弄ぶ人たちの思考は、当然のことながら抽象的たらざるをえまい。この書物は、いま、いたるところで繰り広げられている美しさという名の抽象、正しさという抽象への一つの批判として提出される。そのことが、このいささか大げさな『反=日本語論』という題名をわずかなりとも正当化してくれればと思う。
 いうまでもなく、この『反=日本語論』は、正しさ美しさに対して、誤り醜さを顕揚せんとするものではない。真の問題は、言葉について思考をめぐらせるものが、美しさと同時に醜さを、正しさと同時に誤りを口にすることの抽象を、自分自身に禁ずることにあるのだ。というのも、われわれの周囲に裸の表層を露呈する言葉は、いま、この瞬間、美しさや醜さを超えた生なましい現実としてあるからだ…


反=日本語論 (ちくま文庫)』「序章 パスカルにさからって」より

……かりにそんなものがあっての話だが、現在のわが国には、正しく美しい日本語を、書き読み、話す機会を病理学的に、文化的に、政治的に奪われた人びとが少なからずいる。正しく美しい日本語を標榜する者たちは、彼らが口にしたりできなかったりする日本語を、他人に迷惑になり法律にも違反しているストは認められないというのと全く同じ論法で排斥していることになるのだ。いまに見ているがいい。この種の論者たちは、違法ストを攻撃したその舌の根も乾かないうちに、憲法改正などと口にするに決まっている。もちろん、現行の憲法が正しいとか、ここ数年来の国鉄ストが正しいとか、そんなことが問題なのではない。重要な点は、言葉が規則でも規範でもないという事実だ。言葉は生きているなどと言えば粗雑な比喩の援用とそしられもしようが、言葉が真に言葉として機能している瞬間は、正しさとか美しさは言語的な場に浮上しては来ない。また、一つの漢字の読み方に全て通暁することが、正しく美しい日本語へと至る道ではない。日本語がしゃべれない、一つの日本語の単語の意味をまだ知らないという理由で奪われた言葉もまた、貴重な言語的な場を構成する。欠語、沈黙、錯誤を、ただ耳に聞こえなかった、正しくは響かなかったといって言語的な場から無意識に放逐する人びとにとっての美しい日本語がおさまるだろう輪郭が、いかに弱々しく貧しいものとなろうかは、たやすく想像することができる。『日本語のために』(新潮社)の丸谷才一氏なら、すべからく日本語を役人の手から奪回して、文学者の手に委ねよ、とでもいうのだろう。だがそれにしても、何という退屈な美しさであることか。人は、言語学など信じてはならぬように、文学など信じてはならない。言葉は、役人はいうに及ばず、言語学者や文学者の視線がとうてい捉えることの不可能な逸脱や畸形化を日々生きつつあるのだ……


「萌野と空蝉」より

 斜体の部分は原文では傍点つきになっているところである。以前から思っていたのだけど、日本語フォントをデザインする人は、イタリックではなく傍点つきの文字を作るべきじゃなかったのかなあ。