作家の子猫殺しの告白について

 ここ数日来の坂東眞砂子のエッセイをめぐる大騒ぎについての感想。
 殺された子猫がかわいそうだという意見はまあもっともなのだけれど、「許せない」なんて書いてあると「許せないんだったらどうするつもりだ」と、三文小説の悪役みたいな科白がうかんできてしまう。そう書いて溜飲を下げているだけだったら、子猫の虐殺を見て見ぬふりをしている傍観者と変わりないわけで、本人が気持ちよくなっているぶん、余計たちが悪いかもしれない。
 殺された子猫に感情移入してこの問題に<当事者>としてかかわるつもりなら、エッセイの筆者本人に虐殺行為をやめさせるよう働きかけるのが筋だろう。もしそれができないのだったら、<傍観者>としての立場をはなれた発言をすべきではない。それが、世の中のさまざまな事件を消費するにすぎない<傍観者>としてわれわれが守るべき倫理である。
 ちなみに、坂東の本を買わないとか、このエッセイを載せた日経新聞を購読しないとかいう抗議のしかたは、実効性がほとんど期待できないので自己満足に過ぎない。ましてやこの記事にあるような

「もう、坂東先生の本は買いません。今まで大切にしてきた本も、すべて焼き捨てます。それが、先生に殺されてきた何の罪もない猫ちゃんたちへの、私ができるせめてものことだからです」

なんていう言い方はナンセンスとしか言いようがない。「せめてもの」などと、それ以上何もしないことをみずから宣言して、どういうつもりなんだか。

 というわけで僕自身は、「東京にいて想像する風景と、現地のタヒチの風景とは相当の落差があるんだろうな」とか「批判者は不用意にペットという言葉を使ってるけど坂東本人はペットとは言ってないよな」とかいう感想しか持てない。いかにも他人事のようだが実際に他人事なので仕方ないのである。