<当事者>と<傍観者>のこと

 なんだかネット上では<当事者>という言葉に特別な使い方が一部であるようなのであんまり能天気な話をするのもはばかられるのですが、とりあえずおおざっぱな見方だけ書いておきます。
 誰かがとなりの人の足を踏んでしまうという事件があったとして、足を踏んだ人と足を踏まれた人がその事件の当事者。それをまわりで見ていた人が傍観者。そんな事件があったことすら知らなかった人はただの赤の他人。
 <当事者>は事件の中にいて、<傍観者>は事件の外にいるので、両者の事件に対する発言はそもそも水準が異なります。<傍観者>の発言は事件に対してメタレベルに位置することになる。
 足を踏んだ人は、自分がなぜ誤って足を踏んでしまったかを説明して許しを乞うだろうし、踏まれた人はいかに痛かったかを訴えるだろう。これが<当事者>の発言。それにたいして<傍観者>は、事件がその状況で防ぎ得ないものであったのかどうかの検証や、こうした惨事を未然に防ぐための条件の検討を行い、また踏んだ人はどの程度の謝罪を行うべきか調停することにもなるかもしれない。<当事者>間で決着がつかないときには、事件を俯瞰する立場にある<傍観者>が<裁定者>という役割をになうわけです。
 重要なのは、<当事者>が<裁定者>を兼ねようとしたり、<傍観者>が<当事者>のごとく語ったりしないこと。発言の水準が混乱すると、議論がめちゃくちゃになってしまうからです(時間があるていどたってから<当事者>が事件を客観的にふりかえって<傍観者>のごとく語るだけならかまわないけど)。
 もし、なんらかの理由でこの事件に深くかかわりたいと思った<傍観者>がいるなら、強引に事件の<中に>入っていって<当事者>になってしまうという方法も、もしかするとあるかもしれない。裁判でいうと弁護人の立場になろうか。もちろん<当事者>の立場を生半可な覚悟で引きうけるべきでないのは言うまでもありません。