「教える―学ぶ」という関係

 今時こんなもの(失礼)を引用するのはすごく恥ずかしいんだけど。

…「教える―学ぶ」という関係を、権力関係と混同してはならない。実際、われわれが命令するには、そのことが教えられていなければならない。われわれは赤ん坊に対して支配者であるよりも、その奴隷である。つまり、「教える」立場は、ふつうそう考えられているのとは逆に、けっして優位にあるのではない。むしろ、それは逆に、「学ぶ」側の合意を必要とし、その恣意に従属せざるをえない弱い立場だというべきである。

柄谷行人探究(1) (講談社学術文庫)講談社文庫

 学生のころ読んだときには、この部分がぴんと来なかった。「そんなこといっても先生のいうこと聞かないと単位もらえないし、やっぱり向こうのほうが立場は上だろう」としか思えなかった。
 合点がいくようになったのは、今の店に来てアルバイトに仕事を教える必要がでてきてから。書店員というのはべつに高度に知的な職業というわけではないけれど、それでもやはり教えなければいけないことは結構あって、せっかく採用した人にすぐやめられてはかなわんので、はじめのうちはなるべくご機嫌を損ねないように気を使いながら仕事を教えることになる。こっちが多少なりとも上司っぽくふるまえるようになるのは2、3か月後くらいなのだが、それでもちょっときつい言い方をすると「自分は接客業に向いてないから」と言って急に来なくなったりするのが、だいたい10人にひとりくらいはいる。向いとらんのは俺のほうやちうねん。
 彼らには、最終的にバックレてしまう権利がある。いや権利はないかもしれないけど、逃げることができる。自分はできない。彼らに逃げられるとこちらの負けだ。だから僕は、彼らにその最後の切り札を使わせないように、慎重に勝負をすすめなければならない。これはこっちに圧倒的に不利な戦いなのである。
 「教育」と称してなにかを強制したり、こちらの思い通りの考えややり方を植えつけたりするのが簡単だと思っている人たちは、たぶんこういう「教える―学ぶ」という関係の現場にたちあったことがないんじゃないかと思う。少なくとも不特定多数の人間になにかを「教え」たことなどないにちがいない。「上」の人間のいうとおりに「下」の人間が動く世界なんて、ほとんど奇跡のようにしか存在しえない特殊な場所でしかないだろう。そういう特殊な場所しか知らない人間がえらそうにものを言ったって、だれがまじめに話をきくものか。

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asahi.com: 日本の伝統、文化「学校現場で植え付けを」 小坂文科相 - 教育