TAK FUJIMOTO

 アカデミー賞主要五部門を独占した映画「羊たちの沈黙」を、レンタルビデオで見直してみた。
 映画が始まって3分40秒。確かに、日本人らしき名前が画面に大きく広がる。
TAK FUJIMOTO
 <ハリウッド映画のテロップに、日本人の名を見つけることはなかなかありません。そんな中で、彼の名だけが光り輝いています>
 ファクスをくれた広田優子さん(42)の長男、中学3年生の俊樹君(14)は、小遣いで年間30本の映画を見る。特にハリウッドの作品が大好きで、将来は映画撮影の仕事につきたいと思っている。「タク.フジモト」の名に最初に気づいたのも、彼だった。
 <家族でいつも話題になりますが、どういう人なのか、まったく分からないのです>

 調べてみたら、タク・フジモトさんは、米・西海岸のサンディエゴ市に住んでいた。
 1939年、広島出身米国移民の両親の元に生まれた。61歳の日系米国人二世。本名はフジモトタカシ。日本語は話せない。
 「羊たちの沈黙」(91年)のほか、「フィラデルフィア」(93年)、「シックス・センス」(99年)など、評価の高いハリウッド映画で、撮影監督を務めている。
 撮影監督とは、撮影を指揮し、映像全般に責任を持つ役割である。
 例えば、「羊たちの沈黙」の冒頭シーン。
 早朝、ジョディ・フォスター演じる米連邦捜査局(FBI)の訓練生クラリスが、林の中を駆けている。息が荒い。不吉な出来事を予感させる霧が周囲に漂っている。
 その時、フジモトさんは何をしていたかというと……。
 「もっとスモークをたけ。もっと、もっとだ」とスタッフに叫んでいた。「早くしないと、太陽が出て明るくなっちゃうじゃないか」
 その一方で、モニターをのぞいて指示をしたり、演技中のジョディの後ろを走ったり。時々、ジョナサン・デミ監督と小声で相談をする。
 この場面は、バージニア州クアンティコにある本物のFBIアカデミーで撮影された。敷地は煙が充満し、隣接する海兵隊本部が火事と勘違いして通報したほどだった。

 幼いころを思いだろうとすると、まるでスモークがたかれたように、細部がぼやけてしまう。
一番古い記憶。すきま風が吹く粗末な木造のバラック。同年代の子どもが大勢いて、毎日遊んだ。周囲には何もなかった。
 フジモトさんは、家族と一緒に日系人強制収容所にいた。ロサンゼルスのリトルトーキョーにある全米日系人博物館の案内には、次のように書かれている。
 <42年2月、ルーズベルト大統領は西海岸からの日系人排除を許可した。12万人以上が強制収容され、日系会社は完全に破壊された>
 6歳の時に収容所を去った風景は、はっきりとおぼえている。戦争が終わったのだ。サンディエゴに戻り、しばらく農家の小屋に住んだ。戦後の蓄えを失った両親はキュウリやトマトを作って6人の子を育てた。彼は4番目だ。
 月に一度、父親はなぜか、いつも彼だけを連れて映画に行った。
 農作業の手伝いで汚れた手足を洗う。ピックアップトラックの助手席にはい上がって、街の映画街に向かう。ネオンがまぶしい。ロビーには赤いじゅうたんが敷き詰められ、ポップコーンとコーラを買ってもらった。
 銀幕の上で、ジョン・ウエイン演じるパイロットが、日本軍の戦闘機を空中戦の末に撃ち落とす。操縦士の顔が、血で真っ赤に染まる。
 すごい、映画ってすごいすごいすごい。
 敵役が日本人でも気にならなかった。日系人の少年にとって、映画館は月に1度の「おとぎの国」だった。

 長じて、カリフォルニア大学バークリー校で政治学を専攻した。せっかく一流大学を卒業したのだから、と両親は弁護士になることを期待した。しかし彼は、ロンドンの映画学校で学ぶ道を選んだ。
 2年後に帰国して、数年は下積みだった。ハリウッド業界で名を上げることができたのは、「幸運だったから」だと言う。
 最初の撮影の仕事が、連続殺人事件を描いた低予算映画の助手。途中で撮影監督が監督とけんかをして辞めた。代打で撮ったその映画が、ジョナサン・デミ監督の目に留まったのだ。
 でもハリウッドは、「おとぎの国」ではなかった。
 撮影現場にいるスタッフは100人近くにもなる。制作費数千万ドルの映画でも、半分近くは映画スターが持っていき、残りも知らぬ間に消える。カメラマンを雇う時の基準は「今までどれだけ売れる映画を撮ったか」だ。
 別居の両親が生前、彼に会いに来た。朝、玄関に真っ赤なリムジンが止まった。「お前をむかえに来たの?」この一件で、息子がどんな業界にいるのか、悟ったらしい。
 「芸術的な映画を撮っても客が入らないと意味がない。メーキングマネー。これがハリウッドシステムだ。IT(情報技術)革命が起きても、さらに金を生むように順応するだろう。ハリウッド産業は永遠に続くのさ」とフジモトさんは言った。
 広田俊樹君の質問。「ハリウッドで撮影の仕事をするには、どうすればいいですか」と聞いた。
 「ハリウッドへの扉は狭いのではない。全くないんだ。だれも君にチャンスは与えない。逆に日本人だからと差別されることもない。まず自分で映画を撮って映画祭に持ち込み、だれかの目に留まるのを待つ。そして一番大事なのはあきらめないことだ」

 「日系人であることは映画作りに影響しているのか」そんな質問を地元の記者から受けたことがある。
 ある映画で、地平線まで見渡せる平野に、一軒の家が立つシーンを撮影した。それについて、子ども時代の収容所の経験が影響しているのか、と聞かれたのだ。
 「確かに自分がこの場所を選んで撮影した。でも、それが日系人だということと関係あるのか、自分に分かるわけがないよ」
 今年1月。丸一日車を飛ばして、アリゾナ州日系人収容所の跡地を初めて訪ねた。今までは仕事が忙しすぎて、そんな暇がなかった。
 寂れた風景に、何の見覚えもなかった。どこまでも平らな荒れ地。巻き上がる砂。しょぼしょぼと生えている木。
 両親は死ぬまで一度も、収容所のつらい経験を語ろうとはしなかった。そのことを、ふと思い出した。

朝日新聞/2000.-.-)

 朝日新聞の、たしか日曜版(だかBEとかいう別刷り)に載った記事が、後日ウェブに転載されているのを見つけて保存しておいたもの。元のサイトが消えてしまっていたので、急におもいついてアップしてみた。掲載日は不明、記者の名前もわからない。
 「ハリウッドへの扉は狭いのではない。全くないんだ」というセリフが重いなー。