11/9(日)、ふたたびジャーナリストのこと

 出勤。疲。
 11/7に書いたことにつづけて、ジャーナリズム/ジャーナリストについて。
 いまジャーナリズムとかジャーナリストというと、なんだか「反権力」とか「巨悪を追求」とか「崇高な使命」みたいな妙な共示がくっついてくることが多いけれど、もともとジャーナルって単に「記録」のことでしょ。お店のレジの機械の動作を内部で逐一記録してる紙のことを「ジャーナル」というように。だから「ジャーナリスト」は「記録する人」、「ジャーナリズム」は「毎日記録主義」ていどの意味しかないはずなのだ、本来は。
 もしそれが「反権力」というイメージと結びつくとすれば、権力のヒトのほうが毎日きちんと記録されるとまずいことをやってるからなのだろうし、あるいは反対に、毎日記録してあげると喜ぶ権力者だって、もしかしたらいるかもしれない。
 いずれにせよ、単なる職業をあらわす言葉が価値判断をふくむイメージを伴ってしまうというのは、あんまり健康な事態とはいえないと思う。「ジャーナリスト」が善き報道人で「マスコミ」が悪いのではなくて、善いジャーナリストと悪いジャーナリストがいるだけなのだ。手術の巧い外科医と下手な外科医、接客のていねいな販売員とぞんざいな販売員、教えるのが上手い教師と下手な教師がいるのとおなじである。

ジャーナリストか、電波芸者か? - 双風亭日乗

 そういうわけで、この双風亭の御主人の言うことはもっともなのだけれど、彼の人をジャーナリストと呼ぶべきでないというのはちがうだろう。だいいち貶す意味で「電波芸者」などという言葉を使うのは本当の芸者の人に失礼なんじゃないのかな。「筑紫哲也はダメなジャーナリストだった」と言えばいいだけの話だとおもう。


 そういえばナンシー関はかつて「ニュース23」について、ニュース読む係の女性キャスター・スポーツ担当キャスター・当初あった「第2部」を担当していた阿川佐和子と、若い女性が筑紫の横にとっかえひっかえ出てくるのを揶揄していた覚えがある。また、筑紫が海外の要人に英語でインタビューしたビデオを流すときは、筑紫の英語の質問はそのまま流して翻訳を字幕で出すのに、インタビュイーの返事はアナウンサー(声優?)の日本語がボイスオーバーで流れるという演出をするのが常であった。まあ要するに「英語でインタビューできる国際ジャーナリスト」ていうことを強調したかったわけやね。ライバルだった「ニュースステーション」の久米宏にたいする差別化という意味もあったんだろうけど、うちのヨメはそれをみて「カッコつけんな爺!」と、画面に向かってオブジェクションを申し述べていたものでした。