宮崎駿インタビュー「物語は終わらない」より

…日本の農業について論じ合うということについては、なんかうんざりしてましてね。誤解を恐れずに言うと。
 僕は、無農薬で有機農法でとにかくコメを作り続けるという農家の人とたまたま別のことで知り合って、うちのコメはその人に頼もう、不作の年にはコストが上がってもいい、といって契約することにしました。それで、うちの農業問題は解決−笑−。
 もちろん、それではなんの解決にもならないのだけれども、「日本の農業敗れたり」というようなセンセーショナルな書き方は、腹立ちはわかるけれども、「日本映画亡びたり」と同じ位に僕はもういやだ。
 なにか違うんじゃないかなという気がするんです。そんなに簡単に敗れたり勝ったりするものじゃない。農業問題を論じて、農協がどうのこうのなんて話すと、イライラしてくるだけでね。きわめて個人的な問題でケリをつけてしまおうと。褒められた方法じゃないですよ。だけど、それにしても…餓死が出ているのなら別だけれども。
 最近は、そういうふうにしか思えなくなってきているものだから、環境問題も、近所の川の掃除を地元でやっているから、暇があるときはそれに参加する、それでいいと思っています。これだって、根本的には何の解決にもならないですよ。落ちているビニール袋を拾うとか、そういうことですから。
 要するに、総論でやっているとどうしようもないことが多すぎる。人間、どうも各論と総論のあいだのギャップが分裂しているからうまくいかないんですね。ところが往々にして、人間って各論で満足できるんです。そこらへんのことがいちばん僕はいま気にいっています。
 総論で山の上から見たり、飛行機の上から見ると、これはダメだと思うんだけれども、下へ降りてみたら、けっこう五十メートルぐらいいい道が続いていると、これはいい道だなと思って、そのとき天気がよくてキラキラしていると、なんとなく元気になって、ああ、なんとかやっていけるんじゃないかという気になる。どこに目線を定めるかでこんなにしょっちゅう考え方が変わるというのはどういうものなんでしょうね。
……
 チェルノブイリで被曝した子どもを日本に呼んで治療を受けさせる運動をやっているカメラマンがいるんです。1カ月ぐらい日本に滞在すると、栄養状態もいいからずいぶん健康になるんですね。成長が止まっていた子が成長を開始したり。
 その人なんかは、その子が1カ月たって向こうに帰ったら、また元に戻っちゃうことはわかっていますし、十数人を連れてきたところで、あとの何万という子どもたちには何の役にも立たないのだという思いに苛まれています。僕は、それでいいんだ――というと誤解を招くんですけど――人にできることというのはそういうことなんだと思います。
 「その子が死んじゃったら意味がないのか」といったら、そんなことはない。そのとき、その子たちが何を感じたかということが、たぶんすべてです。だけど、こういうことは、言葉にした途端に、どこか大きな誤解を招くことでしょう。むずかしいですね。…


「よむ」岩波書店)1994年6月号特集1「『風の谷のナウシカ』完結の、いま」より