土門拳「死んだ子」

その子はけっしてお菓子をムシャムシャ食べない子だった。いっしょに同じお菓子をもらったお姉さんたちがたちまち食べてしまって、手持無沙汰でいる時分に、舌の先でしゃぶりつくされて、今や頃合いのやわらかさになったのを、一人楽しくペロリペロリとしゃぶっている子だった。戦争であまいものもなかった。時たまもらった一つのお菓子をできるだけ長く、できるだけおいしく、できるだけ楽しもうとして、自然に発明したその子の食べ方だった。


ぼくは仏像の写真を撮るために、日本中を旅していた。宿屋でたいてもらうために、何日分もの配給米を入れた重いリュックをしょって、バスも通わなくなった田舎道を歩いていた。村には必ず荒物屋兼業の駄菓子屋があった。もしや売れ残っているアメ玉でもないかと思って、必ずのぞいてみるのだが、絶対になかった。口に入るものとしては、たまにニッケがあるだけだった。日本中の津々浦々の駄菓子屋という駄菓子屋にはアメ玉一つ、塩センベイ一枚も残っていないのだった。全く考えられないことだった。それが戦争というものだった。すべてのお菓子の製造を中止させてしまった。そして「軍公用」という言葉がすべてに優先してのさばっていた。


この子は四つか五つの、お菓子が何よりも欲しい年頃に、お菓子が食べられなかった。ごはんすらたまにしか食べられなかった。来る日も来る日も大豆のゆでたのにショーユをかけて、サジで食べていた。そして戦争がすんで、やっとお菓子も自由に食べられるかと思ったら、ふとして死んでしまった。幼稚園へ入った年の夏、六つで死んでしまった。(『チャイルドブック』1960年9月号)



土門拳土門拳 腕白小僧がいた』より転載