痛いニュース:【書評】韓国の美味しい町 食文化、日本は韓国にぜったい負けてる

 変な時間に起きてしまったので(いま10/5の午前2時)、ビールをのみながら殴り書き。
 日本と韓国のあいだには、関心の不均衡とでもいうべき現象があって、つまり韓国は日本のことをたいへん意識していて、日本には絶対に負けられないと思っているのに、日本はもっぱら欧米や中国のほうばかり向いていて、韓国はほとんど視野に入っていない、韓国人にとってはそれがいちばん悔しいのだ、という話をかつて読んだ記憶がある。韓流とか嫌韓流とか言われ出すはるか以前の話である。

韓国では、一九七九年にも、八六年にも、若者たちは日本に対して強い好奇心を抱いていた。読めもしない『ノンノ』や『流行通信』を片手に大学に通う女の子もいたし、日本が隣に控えているかぎりわが国は日本を追い抜くまで頑張ると、わたしに向かって匕首をつきつけるかのように宣言する迷彩服姿の男の子もいた。 (中略) わたしが直接に知っているのは日本文学専攻の特殊な大学生にすぎなかったが、日本に対する関心は専攻の有無を問わず恒常的に存在していた。もちろん、そこには肯定論のみならず強烈な否定論が確固として存在していたこともいうまでもないが……。私はあるソウルの大学教授から、韓国の青年がかくも日本を意識しているのにくらべて、日本の青年が徹底して韓国に無関心なのはどうにかならないものでしょうか、と尋ねられたことがある。
四方田犬彦われらが「他者」なる韓国 (平凡社ライブラリー)

 そうした時代があったことを考えれば、現在のような状況は、かの国にとってはながらく待ち焦がれていたものではなかったかという気がする。そしてその意味では、韓流と呼ばれる流行よりもむしろ嫌韓流のほうがより好ましい風潮なのだろうと思う。なにしろ自分がひとことつぶやいてみるだけで、怒涛のような反論が返ってくるのだから。調子にのってより過激に、挑発的なことを言いたくなるのも不思議なことではない。

 反対に日本の嫌韓周辺の人たちは、韓国ぎらいが高じて韓国のおかしな点、ダメな所を探そうとするあまり、ひび朝鮮日報中央日報のチェックは怠らないし、両国の歴史や文化にも精通していて、自分のような無関心な人間からはほとんどエキスパートのようになってしまっているように見えるのがおもしろい。むかし吉田秋生のマンガで「『よせばいいのに』という演歌が大嫌いで、あんまり嫌いすぎて歌詞全部おぼえちゃったよー」というのがあったけれど、そういう感じ。あるいは、クラスの中でおミソ扱いされている同級生をからかうふりをしながらいつも相手になってやっている不良というか。素直じゃないから口ではああ言ってるけど、ほんとはいいやつなんだよ、みたいな。
 青木るえかというと「主婦兼業のライターで、ちょっとひねくれたことを言う係」みたいなポジションだと思うけれど、どう考えてもそれほどたいした影響力のないこういう文章にまで、ここまで反応してあげるというのはちょっと親切すぎやしないかという気さえする。
 ひるがえって自分はといえば、これはもうホントーに興味がない。アメリカかぶれなので映画やTVドラマはアメリカのものしか見ないし、食べるものも辛いのが苦手だし。韓国の仮面劇はちょっと面白そうかなあとも思うけれど、最近は舞台そのものを全然見てないからなあ。
 と、いうことを考えました。

 ただ、それとは関係なく司馬遼太郎堀田善衛のつぎのような台詞がずっと気になってはいるのです。

司馬 ・・・僕は子供のときからアジアが好きだけど、同時にアジアの人とはうまくやってゆきにくいという困難を感じています・・・(略)・・・まったくいっしょにはやりにくいなと思っていました。
堀田 それは私も、この国は初めから脱アジアじゃないかと思うんです。
司馬 そうなのです。それをひとこと言うと、問題が大きくなるから言わなかった。
 日本史、特に十三世紀の鎌倉幕府の成立からすでに脱アジアでした。その後、一度もアジアであったときがない。
堀田 私はアジア・アフリカ作家会議というものを、戦後長いことえらい苦労してやってたんです・・・(略)・・・ところが、どうも違うらしい。
堀田善衛司馬遼太郎宮崎駿時代の風音 (朝日文芸文庫)