『ミヨリの森』
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台所のテーブルの上でPCをいじっていたら、コドモが見ているTVの音が聞こえてきて、放送中のアニメの科白なのだけれど、それがなんとも耳障りというか不愉快になるような声で、つまり科白の内容がひどいのではなく俳優の発声だか演技だかがどうにもひどすぎる代物だったわけで、さいきんの若い声優さんのことはよく知らないのだけれど、ここまで不快な科白回しはちょっと聞いたことがないという気がして、「?」と思って調べてみたら、件のアニメはフジテレビが特別番組として制作した『ミヨリの森』という作品らしく、その脇役(ちゃんとお話に絡む役柄でけっして端役というわけではない)を同局のアナウンサーたちが担当していて、まさに彼らの出演した場面が不愉快きわまりない場面であったということがわかって、とりあえず納得したのだった。
何がそれほど耳障りだったのか明確に説明するのはむずかしいのだけれど、はっきり言えるのは、彼らの演技が下手なせいで不愉快に聞こえたのではない、ということだ。基本的に、芝居の巧拙で観客が不愉快になることはない(「とほほ…」という感情がわきおこることはあるけれど)。そうではなく、演技がうまいだの下手だのという以前、発声の段階で、いわば役者が科白を喋るためのフォーマットを備えていないのではないか、という感じがするのである。「役者が科白を喋る発声のフォーマット」ってどんなんだ、と言われるとこれまたちゃんと説明できないので困ってしまうが、大げさな言い方をすると、俳優というのはその役を「演じる」というよりも役を「生きる」べきであろうと思うのだけれど、どうもあのアナウンサー連は、演技というものを「科白の内容に応じてイントネーションを上げ下げすること」くらいにしか考えていないのではないかという気がするのだ。といっても彼らはけっして芝居をなめてるとかいうわけではなく、それなりにまじめに取り組んだのだろうし、しかしそのそもそもの認識が間違っているので、がんばればがんばるほど無残な結果になってしまった、ということなのではなかろうかと思う。
この作品がどういう由来で制作されたのか詳しいことはぜんぜん知らないが、自局のアナウンサーを声優に採用したのは、おそらく営業的な意図があったせいであろうし(「なんとこのアニメに私たちも声優として出演させていただいたんですよ!」)、そうだとすれば、この作品の演出家もことさら「演技指導」などする気にはなれなかっただろうという気持ちも容易に察せられはする。
というわけで、私が感じた不愉快さは、このアニメを企画した人間の「脇役にアナウンサーでも出しとけば話題にもなるし」、出演したアナウンサー本人の「こういうふうに喋ればそれっぽくきこえるでしょ」、演出家の「プロの声優じゃないんだからこんなもんだろう」という三つの「こんなもんでよかんべイズム」((c)椎名誠)によって醸成せられたものだと言える。「こんなもんで」。我々の真の敵はこの言葉であると言わねばならない。実に、この言葉は我々をとりまくあらゆる局面にひそんでいるのである。
(はじめはそんなつもりではなかったのだけど変に大上段な文章になってしまった。またこの文章では作品の内容そのものにはふれていないけれど(見てないので)、ネットでの反響をみると散々なものだったみたいだ。まあ、アナウンサーの芝居だけからも判断できるけどね)