わらう新生児

「ある個人史の終焉 - after game over」
 ほんとうは「いやあインテリははなしがまわりくどくてイカン」なんていうコメントとどっちにしようとおもったのだけれど。
 このひとと似たようなことは、僕もアカンボがうまれたころよく考えていた(僕の場合うまれてからだったが)。布団の上でごろんと転がっているちいさな生き物を眺めながら、ああこいつを1人前にすることが自分のこれからの一番の仕事になるんだなあ、それ以外の、自分があれをしたいとか、自分はこうなりたいなんていう欲望は、みんな二の次の話になっちゃったんだなあと、しみじみ思ったものだった。
 id:idiotape(間抜けなサル?)氏はこのように書いている。

 正直なところ、君に対して僕は、「この世界は素敵なところだよ」なんて、100%邪気のない笑顔で言うことができない。日一日とこの世界はひどい場所になっていて、君が大人になる頃には僕らの世界は本当に何もかもが終わってしまった、地獄のような場所になっているのかもしれない。生きるということが、楽しかったとばかり思えないのも、また事実だ。時にうんざりするくらいに、生きるということはしんどい。君に対して、僕は「人生」という最も重い荷物を、本当に無責任に差し上げてしまうのかもしれない。

 ブクマコメントに書いた「新生児微笑」というのは、生まれたばかりのアカンボの顔の筋肉がなにかの加減で緩んだのが、まわりから笑っているように見える現象のことで、つまりアカンボ本人の内面とはまったく関係のない表情である。そもそも「笑う」というのは学習された行動なので、だから先天的に全盲のひとは嬉しくてもとくに笑ってみせたりすることがないわけだけれど、新生児微笑の場合はそれとは反対に「嬉しいとか楽しいのと関係なく笑う」という、やっぱりオトナには普通ありえない表情なのだというわけだ。
 僕は自分の子どものこの笑顔を初めてみたとき、ニンゲンの内面などと切り離されたそのあまりの神々しさについ「ああこの子が世界を祝福している」と感じ、そして「この子に祝福してもらえた世界ならば、あと1日くらいは生き延びることができるかもしれない」なぞと思った。アカンボは決して我々が用意した世界にお客さんのように来るのではない、なんというかむしろ、我々がこれから目の前にいるアカンボ込みの世界に新しく招かれるのだ。こんな言い方はすこし大げさすぎるかもしれないが、こっちの方が自分のいだいた感情にはしっくりきたのだ。

 ぶくまコメントには書ききれなかったのでこっちで言わずもがなの解説をしてみました。日記書くのひさしぶりだったな。