長嶋有「ブーツをピカリ!」より

長嶋有のウットリ堂書店 第7回「ブーツをピカリ!」


 昨年は北軽井沢の「本の六四館」が閉店。一月には「ときわ書房聖蹟桜ヶ丘店」が閉店。もっと大規模のも含め、懇意にしていた書店がいくつかなくなった。悲しい。悲しくて悔しい。


 どちらの書店も、たとえば青山ブックセンターのような「文化的」な場所にある書店ではない。「六四館」は駅の中の書店のごとき小規模さだし、聖蹟桜ヶ丘の駅を降りたってみえる景色は、郊外の典型的な都市のそれ。入る前から「よそとおなじ品揃え」の無個性な書店に思えてしまう。


 しかし、どちらの書店にも異様な活気があった。活気は立地や規模で生じるのではない。働く人で決まるのだ。二書店とも、ベストセラーや雑誌もきちんと扱いながら、独自のラインナップを模索し、キャンペーンやポップを精力的に仕掛けていた。その仕掛け方にも「愛嬌」のようなものを感じていた。いつも生きて動いていて、出向くのが楽しくなる、そういう書店だった。


 それでも、閉店だ。そこで生じていたエネルギーよりも大きな活気のなさに呑まれたのか。


 個々の書店の規模や状況により、閉店にはいろんな内情があるだろう。ただどんな事情でも共通するのは、志ある書店員には罪がないということ。罪がないというだけでない、読者よりも作者よりも、一番の被害者という気さえする。だれよりも悲しくて悔しいだろう。自分の勤め先がなくなる無念さに加えて、具体的な「場所」を失うのだ。それは職場の机がなくなる感覚より、歩き回った森を一つなくす感覚に近い(森はなくなり、荒野になる)。


 この世の、すべてのエネルギーは保存される。端的にいって経済がそうだが、悲しみの質量もまた等しく保存されるとしたら、書店の次は出版社に悲しみが訪れ、末端の者まで等しく悲しい目にあうことを覚悟しなければならない(その末端の者とは作家である)。キーボードを叩く人、赤ペンを入れる人、配送する人、受け取り、見栄えよく並べ、発注し、案内し、管理する人、皆がてんでバラバラの動作をしているが、皆が実は同志だった。


 無力でも、次のうまい一手が分からなくても覚悟することだけはできる(何も持たない人が唯一、すぐにもてるのが自信で、できるのが覚悟だ)。


 ここはあえて、芝居がかった口調でいいたい(いま、この世に立腹しているから!)。すべてのまだ見ぬ書店員たちよ。傷つき、青息吐息の、弾切れの銃剣を杖代わりに、表現の荒野をさすらう同志よ。この広い荒野で我々は皆他人で、互いに知り合わないまま息絶えるかもしれぬ。だから遠くに動く影が見えたなら、むやみに手をふりあおう。至近で出会うことがあったなら、驚くより先にハローと口を動かそう。そして「ブーツをピカリ磨こう!」*

筋肉少女帯『人生は大車輪(作詞・大槻ケンヂ)』より



本屋大賞実行委員会「LOVE書店!」第7号より転載