目的語のおおきな人

 このあいだの、ふるい友人のブログを読んで困惑した話(http://d.hatena.ne.jp/takanofumio/20081125/p2)のつづき。
 彼のような物言いに違和感をおぼえるのは、話がでかいことだ。「この社会はおかしい」「日本をよくする」「地球環境を救うために」云々。ちょっと前の『絶望先生』のネタに「主語のでかい人」というのがあったけれど、それに倣って言えば「目的語のでかい人」という感じ。
 もちろん政治家とか、あるいは大規模なプロジェクトを動かしている人は自然と話が大きくなってしまうこともあるかもしれないが、そういった職業上の必要性もないのにやたら大袈裟な話をしたがる人というのは、ネット上でもリアルでもたまに見るがちょっと遠ざかりたい気がする。
 以前、店のレジに立っていたら親しげに話しかけてくるお客さんがいて、ちょっとしゃべっていたら(閑だったのだ)なんの話の流れだったか「自分は子どもたちの未来のために日本をよくしたいのだ」なんてことを言い出して、しかし別にふざけているわけでもなくいたって真面目な様子だったし、言っていることもまあ筋がとおっていたので、そのときはとくになんとも思わなくて、その人は「日本をよくする」ために有用な(と思われる)本を何冊かうちの在庫のなかから選び、また「日本語について考えたいのだが面白い本はないか」ときかれたので、当時話題になってちょっと売れていた『日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)』という本を紹介すると、じゃあこれもということでカウンターの本の山のいちばん上にのせて、「今はちょっと持ちあわせがないので近いうちとりにきます」と言って連絡先を置いて出ていった。そのまま数日が過ぎ、電話するのもお買い上げを催促するみたいでなんだか気がひけたのでその取り置きをおいといたまま待っていたのだけれど、結局その人がそのあと現れることはなかった。今にして思えば、通りすがりの本屋でいきなりそんな話をはじめる人なんてちょっと変わった人なのであって、ちょっと変わった人が取り置きの本をほったらかしにしてしまうという非常識をしたとしても不思議ではないし、そしてそれは実は自分にも最初からわかっていたことのような気がするのだ。でもまあ、その取り置きは一応一か月保管したあと棚にもどしました。
 閑話休題、こういうでかい話をする人は往々にして問題の解決方法もでかくて、たいてい「教育が悪い」ということを言い出すのである。いわく公共のなかでの道徳がとか、いわくリテラシーがとか、教育委員会が、日教組が、教科書が、六三三四制が、等々。けれど、現実のひとりの小学生を前にしていまの話はどのように具体的に実行されるの? という問いにたいしては、いっこうに分明な対策がしめされることはなく、あるいは「挨拶をしっかりさせる」だの「いたずらをしているのを見つけたらよその子でも叱る」だのといった、寝惚けたような返事しか返ってこなかったりするものだ。
 極端なことを言えば、ひとりの人間に世界を変える力なんてない。何十人何百人と集まって運動したとしても精々目の前の具体的な問題が解決できるかどうかというところである。けれど本当に大切なのは、そのように目の前の具体的な問題をひとつひとつ片づけてゆくことであって、やたら大言壮語してみせることなどなんの足しにもなりはしない。中学生や高校生ならまだしも、いい大人がそういう喋り方をするのは(ちょっと規範からはずれた語のつかい方だけれど)倫理的なふるまいではない、と私は思う。中年の自分が「30過ぎを信じるな」などと言うのは論理的に矛盾しているけど、「(必然性もないのに)天下国家を語る大人を信じるな」*1とは、自信をもって言えることであるのである。

*1:そして大人になると、このような警句もずばっと短く言い切れなくて条件節がいくつもくっついてしまうのである。