「興味がない」

 世界のすべてのことにたいして関心をもつというのは原理的に不可能であるので、個人的に「どうでもいい」と感じることがらが存在するのは致しかたない。
 しかし、何かについて関心がないということと、「そのことに関心がない」と発言することはまったく意味がちがう。ましてだれかに聞かれたわけでもないのに「わたしにとってそんなことはどうでもよい」とわざわざ言ってみせるとなると、これはなんらかの意図があってのことであろうと考えざるをえない。端的にいってそれはその対象が関心をもつにあたいしないことを正当化する準備であろうし、そのようなかんがえかたを周囲に布教する行為の予告であるだろう。つまり「関心がない自分がただしく、関心をもっている人間がまちがっている」という価値判断がすでにふくまれているわけだ。
 学生時代に芝居をやっていると、たまにそういう人が来たりした。べつにチケットを売りつけようとしたとかそういうことではなく、なんの前触れもなくあらわれるのだ。
「演劇やってるんだって?」
「うん、まあ」
「悪いけどおれ、ああいうのって興味ないんだよね」
「ああそう」
「映画とかならいいんだけどさあ、目の前で実際に何かやるのってなんか抵抗があるっていうか」
「……まあそういう人もいるみたいね」
「なんで演劇なんかやろうと思ったわけ?」
「……(なんでって言われてもなあ…。興味ないんならほっといてよ)」
 喧嘩をうられているとしか。
 彼はたぶん、演劇よりも映画やなにかのほうが世界にとって重要であるとかそういうことを、わたしに教えようとしていたのだとおもう。しかしそうおもうのであれば「興味がない」ことを話の前提におくべきではなかった。自分のたずさわっていることに関心をもたない人間の話なんてハナからきく気にはなれないもの。
 自分の話をきいてほしいなら相手にたいして最低限の敬意をもつこと、というこれはきわめて道徳的な話でした。