わたしの中では、ブログ・コメント・トラバ・SBMが、それぞれ街のなかで演説をしてる人とその周囲の反応というイメージがありまして。



 ……書きかけのままほったらかしにしてしまった。


 選挙がちかくなると駅前などで辻立ちをする候補者が見られるようになりますが、ようするにああいう感じ。選挙がなくても普段から演説しているひとがいるように、毎日のようにブログを更新するひともいれば、なにか注目すべき題材があったとき(≒選挙のとき)にだけ記事をアップするひともいる。これはどちらがよいかという問題ではなく、それぞれのスタイルがちがうということであります。毎朝しゃべっている人のファンになるとわざわざ聞きに行くようになったり。演説が終わったところで近づいていって、「ファンです」とか「がんばってください」とかあるいは「その話はちょっと納得できない」とか直接話しかけるのは、ブログのコメント。演説だけするとさっさと消えて、コメントをうけつけない人もいたりして。
 演説の比喩を強引につづけると、トラックバックは少しはなれたところで同じように演説をしている人が「先日××さんがこのようにおっしゃっていましたが…」等々と言及すること。ブクマコメントは演説をききながらわいわい感想を言いあっている閑人の集団ということになろうかと思います。
 まあ世の中にはいろんなブログやダイアリーがあって、毎日の献立とか買った本とかその日のニュースをただ羅列するだけ、みたいなのもなかにはあり、実際にそういう演説を駅頭でやられた日にはうるさくてかなわんわけですが、さいわいネット上では物理的にうるさいということはないのでどんどんやればいいと思う。しかし反対に、そういうことをしてはいかんなあと思うのは、話題の当事者に直接いえないようなことをこっそり書いてしまうことだ。
 たとえばごく最近「戦後60年以上たっているのにいまだに原爆症で死んだとされる被爆者がふえつづけているのはおかしい、その死因は原爆以外の何かだと考えたほうが妥当なのでは」と書いている人がいた。誤解してほしくないのだけれど、わたしはそういう意見が悪いといいたいのではない。真剣にそう思うのであれば、ぜひそのように主張するがよい。しかし駅前の演説にしろブログのエントリにしろ、おおやけに発表している以上、その聴衆/読者のなかには当事者・関係者がまじっている可能性がおおいにあるということは意識しておかなければならない。ようするに上の例でいうと、生まれてすぐに被爆していま白血病などで苦しんでいる人にたいして「あなたの病気は原爆とは関係ないんじゃないですか」と言っているにひとしいわけである。かさねて言うが、もしそのように直接いえるだけの信念があるならばかえってその言説はたいへん貴重なものだろうと思う。けれどわたしの読むかぎりそこにはそのような強い意志が感じられなかったし、反対に、なにか強い動機のもとにその文章が書かれたのであれば、その意思は当然ブログのエントリを書いた程度でおさまるべきものではないはずだ。そして、これはわたし自身が当人を目の前にして直接いってもよいのだが、という前置きをして申し上げると、そのような演説/ブログはイヌに喰われる価値もないと信ずるのだ。