四方田犬彦「<社会の周縁>での読書を語る」

インターネットにおける民主主義というのは、ぼくにとってはチャイルドポルノにおける民主主義と、ほとんど同じですね。誰でも簡単にできて、しかも安全地帯に留まっていられる。批評には多様性や積極的な誤解的解釈が許容されるべきだという立場がありますが、どんな誤解でもいいのかというと、そこには公共的なるものをめぐる最低限の共通了解が分かちあわれていなければならない。でないと、悪しき民主主義、トンデモ本になっちゃう。わたしが危険な傾向だと警戒しているのは、インターネットのクライアントが書く、いわゆる感想らしきブックレヴューです。それと批評とはまったく別物と思います。パブリックに自分の名前を出して責任をもって書くのと、カスタマーが匿名で書くのとは言説の水準がちがう。「同じ人間の意見である点では両者とも同等じゃないか」という主張には、「言説の責任主体をめぐって最低基準があるべきである」とお答えしたい。ヴォックス・ポピュレール(民の声)なるものは「どんな意見があってもいい」と上から許可するのではなくて、自然発生的に小さなグループが下から意見を形成していくものだと思います。


わたし自身もこの一〇年間ぐらい、映画史とか考古学みたいなほうにいっていて、だんだんわかってきたのは、映画史研究のひとたちは、若手も含めてほとんど新作の映画に興味をもってないということ。「スコリモフスキ(ポーランドの映画監督。『パリエラ』『アンナと過ごした4日間』など)が復活した」と言っても、「それだれですか」って、だれも興奮しない。ましてや日本の瀬々敏久や若松孝二の動向にも、まったく無関心で、文献資料の調査ばかりやっている。


先ほども少し言いましたが、五年間くらいかかって、ようやく『日本映画は生きている』全八巻(岩波書店、二〇一〇年〜)が出ることとなりました。二〇一〇年七月末が第一回配本です。いわゆる映画史家を集めて、最年長がわたしなんですが、外国人研究者が増えてきたので、どんどん書いてもらった。日本映画が日本人だけの時代はとうに終わってます。ところが八〇人くらいに書いてもらったのですけど、彼らの大半はシネフィルでもなんでもない。だからぼくはこれが全巻完結したら、長尺ものから手を引いて、短いレビューに戻りたいですね。


いま、アート系の洋画を単館ロードショーで見せてくれる配給会社も劇場もほとんど全滅しちゃった。バックアップするメディアもない。ジム・ジャームッシュの新作について、「ブレッソンの跡がうかがわれる」と新聞に書くと、「それはなんですか」、「そういうむずかしいことは読者がいやがるからやめてくれ」と言われてしまう。そうか、ロベール・ブレッソン(映画監督、一九〇一〜九九年、『スリ』『ラルジャン』など)程度でむずかしくなったんだ。だったら無知な読者を想定して、どう書いていいのかわからない。


インターネットに出てくる映画についての言説は、結局のところ、みんな細部のデータベース管理ですね。細部をDVDで繰り返し確認して、これが何とかだとか言うことが映画をめぐる自己確認になっている。でもそれは批評でもなんでもないし、自分の身をあずけて書くことでもぜんぜんない。『大島渚と日本』(筑摩書房、二〇一〇年)の記述のなかで、「六三年とあるのは六四年の誤り」とか、一所懸命書いてきてくれる人がいる。ありがたいけど、でもこれは批評じゃない。一冊の書物の全体を相手にした言説ではありえない。いっぽうには、たとえば、セカチュー(『世界の中心で、愛をさけぶ』)について、「マジ、おれ、感激しました! 一生の思い出っす。名作っすよ」といった文章がズラッとある。映画をめぐる言説がこのふたつに分かれちゃうと、肝心の映画批評がなくなってしまう。べつに映画批評が観客動員数に関わらなくても、社会的影響力がなくてもいいとかまわないと思うけども、フィルムを観たという体験が契機となって自分で孤独にものを考えるという営為がなくなってしまう。文学もおそらくこういう危機に面しているのじゃないかな。


季刊d/sign デザイン no.18』より