感想・批評・研究

2日あいてしまった。やっぱり毎日更新てたいへん。


前の記事に転載した文章はもちろん抜粋なのだけれど、なんだか四方田もじじむさいことを言うようになったなあという印象。かつて「『ほんとうの名前』という考えがきらいだ」とか「誰が言ったかは問題ではない。誰かが言ってさえいればいいのだ」とか言っていた人と同一人物とは思えない(地震からこっち本棚がメチャクチャで出典を掘り出せないので引用はうろおぼえ)。もっともこれは鈴木一誌氏による聞き書きで、前後のつながりがよくわからないところも多いので、この文章だけをもとに四方田犬彦イクナイと決めつけてしまうのは早計である。


さいきん考えているのは、映画やら小説やらマンガやらへの言説を

感想 > 批評 > 研究

の三つに分けたらどうかということ。右から左にゆくにしたがって属人性が強くなり、一般化傾向が弱くなると考えてください。もちろんこれはどっちが上でどっちが下という話ではない。「批評」と「研究」のちがいについては次の文章が参考になります。

7.冷たいようだが、大学のレポートでは人間としての君たちを知ろうとは思ってはいない。だから、感想文では大学のレポートにはなり得ないのだ。人間形成が教育目標の一部だった高校まではそれも必要だが、大学はそうではない。したがって、大学のレポートは基本的には君たちの「体験」を書く必要はない。それが必要なケースはごく限られる。

つまり、大学のレポートでは「私は〜と思う」という形式の文ではなく、「〜は〜である」という形式の文が求められる。もちろん、これは厳密には「私は「〜は〜である」と思う」という文の構造になっているのだが、いま傍線を施した「私は〜と思う」の部分は、大学のレポートでは隠されていて、書かれないのがふつうである。それが「研究」の文体なのである。

8,「研究」と「批評」とはどこが違うのだろうか。「批評」は基本的に、いま述べたような「わたしは〜と思う」という文体が求められる。書いた人の固有名詞がモノを言って、「あの人がこう言っているのだから、そうなのだろう」という共感の仕方があってもいい。それが「批評」だ。しかし、「研究」は違う。「〜は〜である」という文体が求められる。「あの人がこう言っているのだから、そうなのだろう」という世界ではない。その分野の大御所が書いたものでもまちがいがあれば(あるいは、つまらなければ)通用しないし、大学院生が書いたものでも正しければ(あるいは、面白ければ)評価される。もちろん、現実には様々な要因が複雑に絡み合ってそう簡単にはいかないものだが、それが「理想」であるような世界が「研究」の世界なのである。


石原千秋学生と読む『三四郎』 (新潮選書)』より

聞きようによっては、たんなる無責任な「感想」がすぐれた「批評」として機能するということもあるだろうと思う。あるいはまた、「研究」はもちろん「批評」を書く場合も自覚的に他人を説得するつもりで書かなければならないだろうが、「感想」にはそういうネバナラナイという思想は必要ない。というのも、なにかを見たり読んだりしたときにどうしようもなく持ってしまう印象が「感想」であるはずだから。


というわけでそれぞれの典型的な文章をどっかから引用しようかとおもったのだけれど、本棚がメチャクチャなのでうまく探し出せないのであった。そのうち見つかったら追記します(←尻切れトンボ)。