感想・批評・研究(その2)
http://d.hatena.ne.jp/takanofumio/20110530 の続き。
何かを見たり聞いたりしたときにどうしようもなく持ってしまうものが「感想」、それを他人に説得的に伝えようとしたものが「批評」、さらに一般化して「私は(〜と思う)」という主語を取ったかたちで表されるものを「研究」と呼ぶことにしよう。
どれも「何かについての言説」である以上、それらの論理的な水準が言及の対象よりも上位に位置することになるわけで、その結果いわば「上から目線」な文章になってしまうのは、原理的にそうでしかありえないことであってしょうがないことなのだ。ただやはり作者にしてみれば、「こっちが苦労して作ったものをエラそうにぼろくそ言いやがって」という印象を抱いてしまうのもまた避けがたいところだろうなあとも思う。
またそれとはべつに、日本語の「評」というコトバには「偉い人が(弟子など)自分より下の人の作をアレコレ言う」という意味が内包されているような気がするのだけれどどうなんだろう。だってたとえば、学生が自分の指導教授のだした本を「書評」するって、なんだか落ち着かない感じがするじゃないですか。英語の review や critic にはそういうコノテーションはあるんだろうか。
話を広げると、そうすると批評家は実作者より偉くなければならないのかっていうことになってしまうがそれでよいのかという問題が出てきて(まあ偉い偉くないってコトバがいい加減なので真っ当な議論にはなりようもないけど)、じゃあ豊崎由美は河野多恵子よりエライのか? 宇野常寛は村上春樹を語る資格があるのか? などと言いたくなってしまいますが、それについては、「職業的な批評家というのは、当人のキャリアや能力にかかわらず立場として作家にたいして上位に立つことをみずから引き受けた者である」というふうに解釈しておきたい。つまり「おまえ自分が大したもの書けないくせして何講釈たれてんだよ」と言われたときに「いや私自身のことはちょっとおいといてとりあえずこれだけは語っておかねばならないのだ」と開き直る義務がある者だ、とでも言えばよかろうか。説明しようとしてかえって分かりにくくなってしまった。
続きはまたこんど。