小説家のつく嘘について、続き

http://d.hatena.ne.jp/takanofumio/20110526/p1

の続き(こういうの多いなあ最近)。


というわけで『回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)』を読み返していてハッと思い出したのは、そもそもこの人はなみいる批評家や研究者をだまくらかしてデビューした作家だったじゃないかということである。言わずとしれた『風の歌を聴け (講談社文庫)』に出てくる「デレク・ハートフィールド」という架空の小説家のことだけれど、この場合も、本編のあとに付け足された(ように見える)「ハートフィールド、再び……(あとがきにかえて)」という部分でダメ押しのように登場するので、読者はまんまと騙されてしまうという仕組みになっている。つまり、たんに架空の小説家を自作に登場させてみましたというだけではなく、嘘がなんというかあらかじめ構造化された作品なのであるということだ。


思い出しついでに連想をつづけると、『1973年のピンボール (講談社文庫)』のなかに「すぐにラジエーターが故障するフォルクスワーゲン」という一節が出てくるのだが、フォルクスワーゲンにはラジエーターという部品がないのだそうで、読者から指摘を受けて村上は「これに関しては「ラジエーターのあるフォルクスワーゲンの車というものが存在する世界での話」であると思って読んでもらいたい」という内容のことをエッセイの中で語っている(たしか『村上朝日堂の逆襲 (新潮文庫)』だったと思うのだけれど、例によって本棚から掘り出せないのでたしかめられない)。


あるいはまた、『アフターダーク (講談社文庫)』にはあるジャズの曲についてありえない描写があるという話を、どこかで誰かが書いていた(もうなんの参考にもならない情報で申し訳ない)。村上春樹といえば自他ともにジャズに詳しいと認められている作家なわけで、その人がなぜそのような記述を残しているのかはその誰かの文章でも謎のままだったと思う。


もうひとつ。これはたしか久居つばき氏だったと思うけど、『アンダーグラウンド (講談社文庫)』の「はじめに」に書かれている「著者が地下鉄サリン事件の被害者に興味を抱くようになるきっかけとなった投書の載った女性誌」を特定しようとしたが見つからなかった、という話を読んだこともある(これについては読んだ当時、久居氏のスジがちょっと悪いような印象も同時にもった覚えがあるのだけど、読み返してみないとはっきりしたことは言えない)。ただこれまでの例からいって、「はじめに」の部分に書かれたこのエピソードが作り話だという可能性は否定できない、というか十分ありうることだろうと思う。


かくのごとく、故意にかホントに間違えてしまったかの差はあれ、村上春樹の作品の中には単純に信じこんでしまうわけにはいかない部分があり、しかもそれが作品の構造に深くかかわっている場合がある、ということは言えるだろうと思う。そしてここから先はただのカンなのだけど、この作家のなにか本質的なものがそのへんにあるのじゃないかしら、という気がしきりとするのであった。この問題について書いてる人誰かいないかしら。

(続くかも)