『ハイスクール1968』の感想など。

 『ハイスクール1968』は私はふつうに面白かった(今ふうの言いかた)のだけれど、四方田犬彦という人は毀誉褒貶のある人で…というか最近は「毀」と「貶」がたいへん多いような気がする(←意味あってるよな)。この本も雑誌に発表されたとき、登場人物のひとりの矢作俊彦が「でたらめ書くな」と編集部に怒鳴りこんでその部分の内容がごっそり書き換えられたりしたそうで、できれば初出の方も読んでみたいなあとおもう(実は「新潮」に発表されたときざっと立ち読みしてるのだけれど当然のことながら矢作がどういう書かれかたをしていたかなんておぼえていないのである)。区立図書館に「新潮」のバックナンバー置いてあるかなあ。


ネット上で見つかった評判。

四方田犬彦「ハイスクール1968」を斬る - livedoor Blog(ブログ)

高山宏の読んで生き、書いて死ぬ:『先生とわたし』四方田犬彦(新潮社)

煩悩日記4月1日

いちばん上のブログに鈴木晶氏の日記が転載されているが、その鈴木氏の「写真日記」に二人が並んで座っている宴会の写真が載っていたりする。(http://www.shosbar.com/photodiary/photo067.html*1


また、粉川哲夫の文章(粉川哲夫の「シネマノート」2月15日の項)
に、蓮實重彦との確執を匂わすエピソードが記されているけれど、二人がこういう関係になったのはいつのことなのか、以前から気になっている。
手許の本から関わりのありそうな部分をいくつか抜き書き。

 ぼくのフランス語の先生には奇人変人が多かった。
 最初の先生は(なんでもマラルメの権威だったそうだが)生徒が恐ろしい発音を口にすると、きみ、今のはフランス語じゃありません。ベルジックですよ、といって怒るのが癖だった。ベルギー語という意味で、パリでは田舎のダサイ言葉くらいのつもりでいうのだそうだ。きっとよっぽどパリ留学中にそう言われて馬鹿にされてきたのだろう。
 二番目の先生は国際的なボードレール学者だったのだが、ベルジックなんていっちゃいけません、ベルギーのことを口にするときにはかならずポーヴル(哀れな)という形容詞を前につけなきゃいけませんよ、というのだった。クラスの誰もその意味がわからなかった。けれども、おかげでみんなベルギー語の読み書きが多少はできるようになった。
 三番目の先生は例外だった。彼だけはベルギー語の悪口を決して口にしなかった。理由は簡単。奥さんがベルギー人だったからだ。


「もしもあのとき…/19 フランス語」(『感情教育』)

……
 東京大学で映画をめぐるゼミナールを開かれている蓮實重彦助教授に、感謝の言葉を申しあげたい。ジャン・ヴィゴのすばらしい『操行ゼロ』に登場するユゲ先生にも似た氏の講義は、フィルムをめぐる私の文化的抑圧を解除するに大いに力あった(もちろんこの作業は進行中のものである)。……


リュミエールの閾―映画への漸進的欲望 (1980年) (エピステーメー叢書)』あとがき

五月二〇日
 「シネマグラ」のために「朝の鮮やかなる国から」というエッセイを書き始める。この数週間に見た二十本ほどのフィルムの印象記。ぼくが韓国に行くといったら露骨に不愉快そうな顔をして、「きみはみんなといっしょにパリに行ってくれるものだと思ってましたよ」といった蓮實重彦のことを思い出す。磯崎新の『建築の解体』を読み終わる。


「一九七九年 ソウル」(『星とともに走る―日誌1979‐1997』)

三月十七日 夜四方田犬彦より咳込んだ電話。「今ゴダールのCMやってます」一時間以上TVを見つづけ、ついにゴダールの画面に遭遇。理由もなく興奮する。


「はすみ庵日記」『映画狂人シネマ事典

蓮實▼……たとえば、四方田犬彦が、あるところで、『カサブランカ』という映画を、プロパガンダ映画だといっている。これは、一見正しい理解に見えるけど、この種の言説が意味を持つのは、あれを本気で恋愛メロドラマだと思っている連中に対してだけであり、実は映画史的には嘘なんですよ。
……
 だから、『カサブランカ』は対独プロパガンダ映画というより、反米プロパガンダ映画なんです。そして、アメリカ映画史をちょっとでも本気に勉強していれば、四方田のような視点は出てこないんですよ。それでも、映画批評家になれるんです。若手の批評家でも最初の部分に属する四方田犬彦でさえ、ハリウッド映画の基本的な知識を身につけていない。だから、括弧に括る部分が弱いんです。
……
 さっきもいったけど、四方田犬彦が中上と三島を比較して論じたものがありますよね。あれがまずいのは、三島と中上との小説家としての資質の違いを無視した観念的なエッセイになってしまうからです。三島と中上の小説のどこでもよい、細部をとって比較してみれば明らかなことです。形式的にはっきりしているんです。
 いま僕がいっているのは、批評家のプロフェッショナルとしての発言です。文体の比較をしても、説話論的な構造を比較しても、主題論的な体系を比較しても中上健次のほうが三島由紀夫よりずっと才能がある。それがわからない人は、文学なんかやめたほうがいい。これは厳然たる事実であって、趣味や好みを超えたことです。それをたまたま同じ主題を扱ったから比較してみるというのは、批評家としてのプロ意識の欠如以外の何ものでもない。ただし、四方田犬彦には、アマチュアとしての魅力がありますよね。その魅力は、優れて共同体的なものなんです。中上健次が、共同体の人間として、四方田によってよく理解されたという解放感を味わったのは事実だと思う。その種の共同体的な喜びなしには生きて行けませんものね。しかし作家中上としては、本気に怒らなければならない。三島と俺は違うってね。四方田のものは、きわめて共同体的な原型意識から流れ出た物語のなかに、中上を回収しちまってます。中上の魅力って、回収不能の粗暴さにあるわけでしょう。三島は、物語に回収されることで、かろうじて小説家たりえた人にすぎませんし。


闘争のエチカ

*1:2012年9月現在、リンク切れ