「信憑構造と正当化」のためのレジュメ

信憑構造と正当化
1989.6.1 前期2年 ○山×男


I.前提
世界はそれ自体、自然にではなく、社会に依存していること(1章)
社会的に構成された世界は(自然の後立てがない分)不安定であること(P43)
それ故、何らかの知識によって常に説明される必要があること(〃)
人為的なシナリオは、絶えず上演が繰り返されなくてはならないのみならず、解説が付されなければならない


II.正当化
それは、「制度上の仕組みの<理由>をめぐるあらゆる質問に対する回答」の謂に他ならず、(P44)
さらにそれは、(<観念>にまで興味を持つ人びとが少数であることから)大抵の場合、「前論理的なのである」(P45)
尤も、必ずしもそうであるとは限らず、実態としてはさまざまなレベルを持ち、最終的には、反省的、かつ包括的な「世界観」にまとめあげられる(P47)


III.宗教との関係
「宗教は、社会制度にある究極的に確実な存在論的地位を与えることによって、すなわち、単一の神聖で宇宙的な枠組みの中にそれを位置づけることによって、社会制度を正当化する」(P49)
その限りでは、正当化の領域は宗教のそれよりもはるかに広範囲にわたるのであるが、正当化の手段として宗教が「もっとも広範で有効」であったこと(P48)
つまり、「人間現象を宇宙的な思考の枠組みに<定位>せしめるという宗教の特異な能力」による「正当化のプロセスにおける宗教の歴史上決定的な役割」は、注目に値しよう(P53)
しかし、さらに重要なのは「死」を代表とする「境界状況」をも、宗教は社会の中に位置付ける機能を持っていたことであり、それがあったからこそ宗教はかくも強かったのである(P65〜66)


IV.方法
行為と観念化、つまり儀礼と神話の反復による反復が必要なことが、その反自然性を物語っているといえよう(P59〜60)


V.信憑構造
かくも不自然な「社会」を如何にして自然に見せかけるかが次の問題となる
つまり、もろもろの社会が構成し、維持する「世界」=「現実」をもっともらしく演出する(それぞれの?)社会の固有のプロセス、「世界がそれぞれ、個々の人間存在にとって真実である世界として存在し続けるために」ぜひとも必要とされるであろう「社会的な<基盤>」こそを問題としなくてはならない(P67〜68)
その「基盤」をここでは「信憑構造」と呼ぶ(P68)
いわばもっともらしさを支える機構のことである
それなくしては世界は「自然な自明性の喪失(ブランケンブルク)」に陥るだろう


VI.宗教と信憑構造
上記の宗教と社会との関係、前者が後者をバックアップするというそれがここでも前提されているだけに、「複数の異なった宗教体系、およびそのそれぞれの制度の<担い手たち>が並存して競合する場合には、事情は全くちがってくる」点が注目を引く(P74)
「個人にとっては、ある特定の宗教的世界に生存することが、すなわち特定の社会的文脈に生きることであって、その文脈の枠内でこそ世界がその信憑性を保つことができる」のだから、「非独占化された複数の宗教体系のために信憑構造として役立つようなそれぞれの下位社会」におとしめられた宗教的世界の直面する問題は深刻である(P74〜75)
「回心」も、この観点から説明されうるだろう(P76)
すなわちそれは、複数の<宗教的>世界観における個人の所属の変更に他ならないのだから(P76)


VII.結論 宗教の力
「死」に対して宗教の与えうる信憑性のいかんにかかっていること(P78)


 むかし友人が大学院のゼミでピーター・L・バーガー『聖なる天蓋―神聖世界の社会学 (1979年)』の第2章「信憑構造と正当化」について発表したときのレジュメ(コピーがあまっていたのをもらった)を、このあいだの部屋の整理で発掘したので保管。自分の宗教社会学の理解は基本的にこれ1枚につきている。
 余談ですが、ここに出てくる「自然な自明性の喪失」という表現を見て、上手いこと言うもんだなあと思ったのだけれど、後日『自明性の喪失―分裂病の現象学』をのぞいてみて、この言葉が分裂病統合失調症)者本人の科白だというのを知って「なんとアタマのいいキチガイなんだろう」と思ったものでした。