『羅生門』みた。
早起きして録画してあった『羅生門』をみる。未見である。はずかしい。ちなみに原作の『藪の中』も未読である。さらにはずかしい。
羅生門のオープンセットがすごい*1。雨がすごい*2。志村喬が森のなかを歩いてゆくところがすごい*3。三船敏郎が、なんというかちゃんとした芝居をしているのがすごい。えーとこの「ちゃんとした」っていうのはつまり、演劇的とでも言いましょうか、演じることに自覚的と言いましょうか、面倒なので説明するのパス。
見ているあいだずっと考えていたのは、この程度のことはたぶん公開当時から言われたりじっさいにやられたりしたんじゃないかとおもうのだけれど、これこのまま舞台に乗っけられるなあということ。
そうおもうのは、全体の構造が杣売りが自分の見聞きした話を下人に語って聞かせるというスタイルだから。つまり、自分が「演劇的だ」と感じるのは、俳優がその語りの力で、その時・その場にない物語を現前させようとする部分だということである。すなわち、たんにAとBが喧嘩するという行為を観客にみせるだけでは十分でなく、「今ではないいつか」に「ここではないどこか」でAとBが喧嘩をした様子はこのようであったよ、と観客に語るという行為が(自分にとって)演劇的な体験なのだということである。というわけで、舞台のうえにリアルな大道具を建てこんでやる芝居って好きじゃないんだよね。
映画から話がそれてしまった。このようにいろいろすごいとはおもったのだけれど、話そのものは正直いって他愛ないような気がする。冒頭から志村喬が「おそろしいおそろしい」と大仰に言ってみせてるけど、事件の粗筋が語り手によってちがうというのは「真相がわからなくて不思議だな?」という感想にはなっても「おそろしい」にはならないと思うんだよね、常識的に考えて(←流行語をつかってみました)。あとから読んだ芥川の原作のほうもぜんたいにシニカルな、「しょーがねーなー人間て」という調子で書かれているように読めたのだけれど。それを殊更おそろしがってみせたり、幕切れに赤ん坊のエピソードをつけたしたりするのは悪しき文学趣味のようにみえるんだがなあ。