ある種の演劇用語について

http://guideline.livedoor.biz/archives/51086605.html
http://www.famitsu.com/anime/news/1216529_1558.html
 たしか『あえてブス殺しの汚名をきて (1977年)』だったとおもうけど、つかこうへいが自作の『熱海殺人事件』の上演許可を出したアマチュア劇団の公演を見に行って打上げに参加したりすると、役者が調子にのって「カミュ全集を読破して役作りをした」みたいなことを言い出すので辟易する、ということを書いていたのをおぼえている。「あいつら、オレがどんなでたらめなセリフ書いてもすぐ役作っちゃうんだよな」みたいな言い方をしてたはずである。なんでここにカミュが出てくるかというと、芝居のなかで殺人の容疑者が刑事に動機を聞かれて「太陽のせい」と口走る件りがあるからなのだけれど、それはもちろんギャグというか笑うところであって、カミュの思想だかなんだかが関係ないのはまあ高校生でもわかる話なのだ。ただそれはまんざらただの冗談ではすまなくて、ほんとにこんなことを言い出しかねなかったのが70年代のアマチュア演劇界であるのも事実である……いや、もしかしたら今でもそういうのって生きのこってるかもしれん。アマチュア演劇って部外者にはなんか底知れないところがあるから。
 それはともかく、当時高校生だった私はこのエッセーをよんで「そうか、役作りって恥ずかしいんだ」ということを学び、それ以来このコトバを避けるようになった。そしてそれはたいへん正しい教えだったなあと、つか氏に感謝する次第なのだった。
 じっさいどんな「役」でも、ブンガクの全集を読破するていどで「作」ってしまえるほど「役」というのはカンタンなものではない。「役」とは戯曲という世界=小宇宙のなかに生きている一個の人間*1であって、それを「作る」ことができないのは、現実の世界で隣人にむかって「僕は君という人間を完全に理解した(≒役作った)」とはけっして言えないのと同様である。
 自分の乏しい体験からいうと、ある役を演じてどうにかうまくいったなあと感じられたときは、演じている自分のすぐそばにその役の人物がいるようなイメージがあった。そして、その役の人物が戯曲の論理にしたがって行動するのをひたすら追いかけてなぞっている、という感じがしていた。非常にうまくいったときには、自分とその役はふたつの映像が同期するみたいに、ほとんど重なって動いたりすることもあったけれど、そういうことはまれで、たいてい1拍か2拍の間をおいて必死で追いかけるのが常だったような気がする。
 役の行動をなぞっていると、その役の感情のうごきがすこしずつわかってくる。それは、ふたたび現実世界のアナロジーをもちいると、親しい友人の行動がなんとなく理解できるというのに似ていて、自分ならそうは言わない/しないけれど、彼がそう言う/するのはわかる、というのとおなじである。役の感情はけっして自分の感情と同一ではなく、それどころかわりと批評的に眺めていることのほうが多かったような気がする。
 「役作り」と同様に「役になりきる」というコトバに違和感をおぼえるのも、自分が役に「なって」しまったことがないせいなのだが、これはけっして私だけの個人的な事情ではなく俳優の演技というものがそもそもそういうものであろうという確信はある*2。第一、俳優が役に「なりきって」しまったらコントロールができないではないか。ある種の特殊な場合をのぞいて、演劇というのはあらかじめ用意された台本というレールの上を走ることによって生みだされる表現であって、それは基本的な部分で冷静に制御されていなければならないのだ。この文章を読む人は、私が言葉尻をとらえて因縁をつけているようにみえるだろうか? だけどこれはほんとに本質的なことだよ。
 まあ、俳優本人がどんなバカなこと(すいません)を言おうが演じられた演技がすばらしければ文句はないわけで、このへん細かいことにうるさいのは似非インテリのおおい演劇人/もと演劇人のわるい癖なのは本人もよくわかってるのだ。しかしこの声優さんのインタビューは、それにしたって素人くさすぎるんじゃないかなあとおもう。

*1:でない場合もあるけど

*2:ただどんなものにも例外はあり、本当に役になりきってしまう俳優というのもまれにいるらしい。モノの本によるとマリア・カラスだとか、あと最近では大竹しのぶがそういうかんじか