『テレビだョ!全員集合―自作自演の1970年代』よんだ。

目次
序章 七〇年代テレビと自作自演(長谷正人)
第1部 七〇年代テレビをジャンル別に見る
第1章 開拓者の時代 ―七〇年代バラエティというフロンティア(太田省一
第2章 視るものとしての歌謡曲 ―七〇年代歌番組という空間(太田省一
第3章 ドキュメンタリー青春時代の終焉 ―七〇年代テレビ論(丹羽美之)
第4章 日常性と非日常性の相克 ―七〇年代テレビドラマ論(長谷正人)
第5章 コマーシャルの転回点としての七〇年代(難波功士
第2部 七〇年代テレビと社会を読む
第6章 テレビと大晦日(高野光平)
第7章 「女子アナ」以前あるいは“一九八〇年代/フジテレビ的なるもの”の下部構造 ―露木茂氏インタビューから(瓜生吉則
第8章 テレビにとって“やらせバッシング”とは何か ―「やらせ問題」のテレビ史的意義(田所承己)

 おもしろかった。
 ここでいわれている「自作自演」とは、TVが自分で事件を起こしそれを客観性を装ってカメラにおさめることによって、独特の面白さが作られていたのではないかという著者らの仮説のこと。「テレビカメラはただ客観的に目の前の出来事を伝えるだけでなく、自分たちがいま取材していること自体から生じた現場の空気をも伝えていることになる(P14)」。量子力学の<観測することが対象のふるまいに影響を与えてしまう>という話みたい。80年代に入ると、製作者(と視聴者)はこのような自己言及的な態度をはっきりと意識し『嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)』で論じられるようなネタ/ベタの対立的な状況が発生するのだけれど、70年代はまだそれが試行錯誤の段階で無自覚なまま演じられたため「70年代的な自作自演性のなまなましさ(P20)」があったのだ、とのこと。
 たしかにこの時代のTVは面白かったし、その面白さの由来がこのようなものだったといわれて反論する理由はないのだけれど、なんだかタコが自分の足を食って生き延びてるみたいな印象がのこる。そしてその比喩をつづけるなら、90年代以降のTVは自家中毒を起こしてるようなものではないだろうか。だとしたら、「自作自演性」がTV独自のおもしろさの源泉だと手放しで喜ぶわけにも行かないのではないかしら(べつにこの本の著者らがそういう風にノー天気な態度をとってるわけではないけどね)。
 興味深いのは第7章で語られるフジテレビの社内事情。合理化と労組対策のため'71年に制作部門が分社化されたせいで現場が混乱し視聴率競争で大きく遅れをとってしまったため、'80年あらためて本社に呼び戻したプロダクションの社員が異常に張りきり80年代の快進撃につながった、という話。またその「フジテレビ革命」のなかで女子アナウンサーの待遇が見直されたが、それまでのフジテレビの女子アナウンサーはなんと25歳定年制で、そのあとは2年ごとの契約社員だった、という話。均等法以前とはいえあんまりにも前近代な制度である。フジテレビの入社試験うける人たちは、こういう話を知ってるのかなー。